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愛… 時代により変遷する愛  [ブック]

 さて、みなさまご待望(?)の、愛するということ(エーリッヒ・フロム著)のLobyの迷解説Part-2です。(Part-1はこちら

こういう専門書(といっても一般の人にわかる内容ですが)を読むと、

 ”ふ~む… さすが専門家だなぁ”

とつくづく感じます。



愛するということ本

こういう専門書には、私たちが体感的、経験的には知ってはいても、理論づけることができないことがキチンと整理&裏付けされて説明されているわけです。

まあ、これは当然なんですけどね
だって、ほかに仕事もせずに、その専門だけを1年365日 x 数十年も研究しているんだから、
シロウトが読んで驚くようなことが書いてあるわけです。

 

エーリッヒ・フロム

エーリッヒ・フロム





愛するということ  




たとえば、フロム先生は、本書の中で「愛は時代により変遷する」と言っています。
そう言われてみれば、そうなんですよね。
私たちの価値観とか倫理とかも、時代によって変遷しますし、また、時代(民衆の要求)によって、その背景となる思想・哲学もその要求(必要性)にあわせて変化したものが受け入れられるのですから。

たとえば、フロム先生は”愛の対象の選び方”の変化について、ヴィクトリア王朝時代(1837年~1901年)には、愛は、結婚へと至ることもありえる自発的な個人体験ではなく、結婚は双方の家あるいは仲人によってまとめられたり、または両家の話し合いによって決められるものであり、愛は結婚した後で生まれるものだと考えられていたのです。




    ヴィクトリア王朝時代の結婚式

ヴィクトリア王朝時代の結婚式

このような風習は日本でも戦前・戦後しばらくまでは行われていたようです。
いわゆる『お見合い』というやつですね。
(これは今でもお見合いネットとか婚活ネットのような形で存続しているようですが…)

しかし、その後数世代の間に愛は”ロマンティック・ラブ”、つまり、結婚にゴールするような個人的体験としての愛をもっとも理想的なものとする概念にとって変わられることになったのです。



ロマンティック・ラブ


 

愛の商品化


フロム先生は、このあとで現代社会における”愛の商品化”ということを指摘しています。
つまり、現代社会は消費社会であり、それは私たちにとって”購買欲”という欲望と、おたがいにとって”好都合な交換”という二つの大きな柱によって支えられているのです。
街を歩けばショーウインドーをわくわくしながらながめたり、現金であれ、月賦であれ、買える(欲しい)ものは何でも買う。

そして
誰もが同じような眼で人間を見ており、にとっての魅力的な女性、あるいはにとっての魅力的な男性は、自分が探している”掘り出しモノ”なのです。
ここで”魅力的”という概念について、「人間の市場で人気があり、みんなが欲しがるような性質を一包に詰めあわせたものを意味する、とフロム先生はおっしゃっています。

理想の恋人(パートナー)はウインドウショッピングをするような感じで選ばれる?

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そして、当然のように、何がその”商品”(自分が求める理想的な恋人&パートナー)を魅力的にするかは、肉体的にも精神的にも、その時代の流行に大きく影響されます。
1920年代には、お酒を飲んだり、タバコを吸う、元気でセクシーな女性が魅力的とされ(フロム先生はこの時代の人間なのであしからず)、最近(この本が発行された1950年代?)は、もっと家庭的でおしとやかなタイプの女性の方が好まれている。

ちなみに、平安時代ころは、下あごがふっくらしたオカメさんみたいな女性が美人とされたし、アメリカの男性はマリリン・モンローのようにブロンドで巨乳の女性がお好みのようです。

一方、男性は、20世紀初頭には大胆で野心満々でなければ”商品価値”は少ないとされた。今では、社交的で寛容でなければなりませんでした(これも1950年代のこと?)。
現在は、家事も育児も手伝ってくれる男性の商品価値が高いようですけど…
(それ以前に、①身長が高いこと ②年収が高いこと ③高学歴であることという3つの前提条件があるようです(いわゆる三高?)




男も女も”買得商品”を探している?

恋人にしたい人




いずれにしても、男女が恋の相手(or パートナー)として選ぶ人は、自分自身と交換することが可能な範囲の”商品”に限られ、おたがいに”お買い得商品”を探します。

相手は、社会的価値という観点から望ましいものでなければならないし、同時に、その相手は”私の長所や可能性を、表面にあらわれた部分も隠された部分もひっくるめて見た上で、私という人間を欲しがってなければならない。
そして、二人の人間は、自分の価値交換の限界を考えた上で、市場で手に入る最良の商品を見つけた、と思ったときに恋に落ちる。

恋愛をすることで、それまで赤の他人同士だった二人が、おたがいを隔てていた壁を突然取り払い、親しみを感じ、一体感を覚える瞬間は、生涯でもっとも心躍り、胸のときめく瞬間である。
それまで自分の殻に閉じこもり、愛を知らずに生きてきた人なら、いっそう素晴らしい奇跡的な瞬間となるだろう。



まさしくその通ですね。
フロム先生が解説している、恋愛が精神にもたらす大激震、いや大影響は、経験者のみぞ知る、ですが、本当に恋の虜になってしまいます

しかし、こういった、誰もが夢見る情熱的は、思わぬところに落とし穴を作ります。
二人が突然親しくなりというこの奇跡は、性的に惹きつけ合って結ばれるとか、性的な関係から交際が始まった場合の方が起こりやすい。しかし、この種の愛はどうしても長続きしない。親しさが増すにつれ、親密さから奇跡めいたところがなくなり、やがて反感、失望、倦怠が最初の興奮のなごりを消し去ってしまう。
しかし、二人はそんなことだとは夢にも思わず、たがいに夢中になった状態、頭に血がのぼった状態愛の強さだと思い込む。

そうそう、これが前回見た、”快感物質ドーパミン”(最大3年しかもたない)の仕業なんですね。





恋は甘美な体験?

恋人は商品?

 

 

愛は惜しみなく与える

と言えば、Lobyはなぜか”愛は惜しみなく奪う”という言葉が頭のかたすみにありました。

これはたぶんに、有島武郎の書いたこのフレーズをどこかで見て記憶したものだと思います。

この言葉の対極にあるのが、トルストイの”愛は惜しみなく与う”という言葉ですね。



”惜しみなく奪う”というのは、エゴイスト的な愛と言えるでしょう。

相手がすべてをささげ尽くすまで満足しない、貪欲な愛。

ブラックホールみたいな愛。

自己中心の愛。



それに対して”惜しみなく与う”というのは、利他的な愛です。

相手に何かをしてあげることで喜びを感じる。

この場合、最終的に唯一求めるのは相手の愛でしょうか。



”惜しみなく与える愛”の中で、もっとも高尚なのは無償の愛です。

これは恋人同士とかの間では生まれませんね。

だって、相手に対して尽くすとかささげつとか言っても、

最終的には、その相手からの応えとしての愛を求めているのですから。

 

無償の愛

 

 

フロム先生は、”愛とは与えることであり、もらうことではない”と言っています。

これは、愛は能動的な活動であり、受動的な感情ではない。その中に「落ちる」ものではなく、「みずから踏み込む」ものであるからだそうです。


無償の愛として、母親のわが子に対する愛をあげています。

たしかに、母親は子どもを産み、育てるのに対価を求めません。

「この子が大きくなったら、私を養ってもらおう」

なんて考えて育てる母親はいませんからね。


母親と子どもの関係はその本質からして、一方がひたすら助けを求め、一方がひたすら与えるという不平等な関係であり、この利他的で自己犠牲的な性格のために、母性愛は、もっとも高尚な愛、あらゆる情動的きずなの中でもっとも神聖なものとみなされてきた。

と、ここまでは、母親の愛はこれ以上至高なものはないように説明されています。

しかし、しかし…

すでに母親の経験のある女性は単純に、「そうよそうよ!」と鼻高々になってはいけません。

なぜなら、フロム先生は続いて、

しかし、母性愛の真価が問われるのは、幼児に対する愛においてではなく、成長をした子どもに対する愛においてである。実際、大多数の母親は、子どもがまだ幼く、全面的に母親に依存している限りにおいては愛情深い母親であるが、これは子どもを自分の一部と感じ、溺愛することは自分のナルシシズムを満足させることになるほか、母親の権力欲や所有欲をも満足させるためである、と辛辣な心理描写をしています[あせあせ(飛び散る汗)]



母性愛の本質は、子どもの成長を気づかうことであり、これは子どもが自分から離れていくのを望むということ。ここに異性愛との根本的な違いがある。異性愛では、離れ離れだった二人が一つになる。母性愛では、一体だった二人が離れ離れになる。
母親は子どもの巣立ちを耐え忍ぶだけでなく、それを望み、後押ししなければならない。




そして、子育ての中でこの段階が母親にとって、もっとも難しい段階になります。
それはどういうことかと言うと、徹底した利他主義、すなわち全てをあたえ、愛するものの幸福以外何も望まない能力が必要になり、多くの母親が母性愛という務めに失敗するのもこの段階である。
ナルシシズム傾向の強い母親、支配的な母親、所有欲の強い母親が”愛情深い”母親でいられるのは、子どもが小さい時だけであり、ほんとうに愛情深い女性、すなわち、取るよりもあたえることに大きな喜びを感じ、自分の存在にしっかり根をおろしている女性だけが、子どもが離れていく段階になっても愛情深い母親でいられる。

 

”愛とは愛を生む力であり、愛せないということは愛を生むことができないということだ”(フロム)

無償の愛1





子育てって難しいですね…

要するに、女性は母親となる前に、どれだけ人間(精神)的に成長しているかによって決まるということですね。

身体だけは大人になっても、精神的に立派な大人になってないと、立派な母親にはなれないということ。


この項のしめくくりとして、フロム先生はこうおっしゃっています。

成長しつつある子どもに対する母性愛のような、自分のために何も望まない愛は、おそらく実現するのがもっとも難しい愛のかたちである。ところが、母親が幼児を愛するのは簡単であるため、その難しさは中々理解されない。

しかし、それほど難しいからこそ、本当に愛情深い母親になれるのは、愛することのできる女性、すなわち夫、他人の子ども、見知らぬ人、そして人類全体を愛することのできる女性だけなのだ。




さて、最後のしめくくりにペルシャ人神秘主義詩人、ルーミーの詩を紹介します




人が恋人を求むるは、まことは恋人より求められるゆえ。


愛の光この心に射し入るとき、かの心に愛あれと知れ。


汝の心に神への愛の高まるは、汝の神への愛の証なり。


片手のみでは手は鳴らぬ。


神の知恵は宿命、人の恋しあうは神意ゆえ。


聖なる定めによりて、万物はすべて対なり。


賢者の眼には、天は男、地は女、天の注ぐを地が育む。


地冷ゆれば天これを暖め、地乾き力衰ゆれば、天また力を与う。


天は巡る、妻のため糧運ぶ夫のごとくに。


地は甲斐甲斐しく家政に励み、産み、乳もて養う。


天と地とを知恵あるものと見よ、それら超えある者のごとく働くなれば。


喜びは相手ゆえ、さもなくば、天と地恋人のごとく抱き合うは何ゆえ。


地なくばいかにして花咲かん。天の恵む雨と温もりなけくば。


神、万物に他を求む欲望を与えたまう。


昼と夜は表にては敵、されど共に仕ゆる目的は一。


万物恋し合い、相補いて務めを果たす。


男なる夜ありて糧稼がねば、昼費やすもなし。





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今日もご訪問有難うございます♪

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コメント 6

himanaoyaji

愛・・・、 私の辞書から消えて何年になるかな〜〜、
(^_-) -----⭐︎
by himanaoyaji (2015-12-06 08:34) 

なんだかなぁ〜!! 横 濱男

博愛ですね。。
なかなか・・・難しい。。。
by なんだかなぁ〜!! 横 濱男 (2015-12-06 20:50) 

isoshijimi

深かったです。
読み込んじゃいました。
by isoshijimi (2015-12-08 08:38) 

トモミ

結局、愛は「幻想」に過ぎないんでしょうかねぇ…
by トモミ (2015-12-12 12:47) 

駅員3

家族への愛、恋人への愛、愛には様々な形や心がありますね!
by 駅員3 (2015-12-14 14:25) 

Loby

>himanaoyajiさん、愛は永遠ですよ(^_-)-☆

>なんだかなぁ〜!! 横 濱男さん、”たかが愛、されど愛”ですね。

>isoshijimiさん、本当に興味深い内容の本でした。

>トモミさん、えっ”幻想”???
 ふ~む…
 専門家がそうおっしゃるならそうかもしれませんね^^;

>駅員3さん、おっしゃる通りですね。
 さまざまな形の愛がありますね。


by Loby (2015-12-17 22:00) 

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