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静寂を破って [考えること]

 今年は日本人のブラジル移住100周年にあたるため、年初からいろいろな記念行事が開催されており、ブラジル社会もメディアも大きな関心を持っているようです。
また、先週発表されたブラジルの世論調査では、ブラジル人の日本、または日本人に対する評価では、80パーセント以上のブラジル人が日本および日本人に対し、好意、信頼感を持っていると回答しています。これは米国やヨーロッパあたりの国への評価を大きく引き離す結果で、日本の外務省あたりは大いに満足していると思いますが、ブラジルに住んでいる私たちにとっては当然といえる調査結果です。

ここで勘違いしてならないのは、この日本および日本人に対するブラジル人の絶大な好意や信頼感は、決して日本政府が築いたものでもなければ、日本の企業が築いたものでもないということですね。まあ、日本政府は近年、日本のイメージを向上すべく文化の普及など色々やっており、かなり努力しているようですし、日本企業もその信頼性のある商品の輸出や現地生産でそれなりに貢献していますが、ブラジル人の日本および日本人に対する好意と信頼は、ブラジルへ移住して来た日本人たちとその子孫である日系ブラジル人たちが100年という長い期間をかけて築いて来た結果なのです。
ここのところを日本の政府や企業は勘違いしてはいけないと思います。
で、話しを日本人ブラジル移住100周年記念にもどして、ブラジルの日系社会のトップ、こちらで日伯文化協会などと呼ばれている日系団体などの理事長とか役員などの言動を見ると、彼らは「100年前に日本人を両手を広げて受け入れてくれたブラジルに対して感謝をします」なんて発言しているわけですね。
これもブラジルの歴史を調べればすぐわかることなんですが、ブラジル人は決して“両手を広げて”日本人移住者を歓迎したわけではないのです。
ブラジルが日本人移住者を受け入れたのは、奴隷制度が廃止されたため、奴隷に代わる労力として受け入れたのであり、日本政府側も国内のプレッシャーを減らす意味から外国への移住を奨励したのであり、二国間の利害が一致した故にブラジル移住が日の目を見たわけです。
なぜ、こんなことを書いているかというと、先週のフォーリャ・デ・サンパウロ新聞(ブラジル最大の発行部数)の日曜版にに『静寂を破って』(今日のブログのテーマもこれから借りました)と題した特集があり、今まであまり語られたことのないブラジル政府およびブラジル人が日本人移住者に対して行った差別と迫害の歴史が載っていたからです。
このフォーリャ紙の内容とは少々違いますが、ブラジル日本移民100周年協会のホームページ http://centenario2008.org.br/jp/ に「ブラジル日本移民の略史」があり、その中に次の記述があります。

「第二次世界大戦の前年である1938年になると、ブラジル政府は日本人移民の文化・教育活動に制限を設け始めた。同年12 月、政府は全ての外国人学校(とくに枢軸国人である、日本人、イタリア人、ドイツ人の学校)の閉鎖を命じた。
1941年12月8日、日本は太平洋戦争へ突入。翌年、1942年の1月19日にサンパウロ州保安局は枢軸国人の取締り令を公布、これにより自宅以外での母国語の使用、母国語で書かれた文書の配布、集会、当局の許可なしの旅行ならび転居等が禁じられることとなった。続いて、1月29日、 ブラジル政府は枢軸国との国交を断絶、在伯公館の閉鎖を要求し、ブラジル在住のドイツ人、イタリア人、それに日本人を敵性国人と指定した。29日、ブラジル政府は枢軸国3国(ドイツ、イタリア、日本)との国交断絶を宣言。
同年2月、サンパウロ州治安局は治安を理由に、サンパウロ市内でもっとも日本人が集中していたコンデ・デ・サルゼーダス街一帯からの日本人立退き命令を出した(第一次立退き令)。またブラジル政府は枢軸国人所有の資産凍結令を公布すると同時に、治安当局による枢軸国人の検挙、家宅捜査などが行われた。
同年7月、 野村、来栖両米国駐在大使ほか1700人の米国からの引揚げ者を乗せた抑留者交換船がリオに寄港した折、南米各地にいた日本の外交官、民間人300人も乗船、日本へ発った。
1943年7月には、サントス出港後のブラジル国籍及び米国々籍貨物船がドイツ潜水艦によって撃沈されたこと から、海岸地方に住む枢軸国人スパイの情報によるものと見たブラジル当局は、海岸地方の日本人を含む約1500人の枢軸国人に対し24時間以内の立退き令 を出した。度重なるドイツ潜水艦の攻撃による貨物船の沈没は、ブラジル人たちの枢軸国人に対する感情を険悪なものとし、ベレーン市では、日本人、イタリア 人、ドイツ人の住宅が破壊、焼討ちなどに遭い婦女子が暴行された。とくに人種的特長が目立つ日本人に被害が大きかった。」

まあ、これは、ブラジル政府およびブラジル人による差別、迫害の事実の外側をそっと撫でているような記述なのですが、それでもおおよその感じが掴めると思います。実際は、第二次大戦中の米国の日本人隔離計画のようなことがブラジルでも行われており、官憲により逮捕、拘束され、拷問にあったものもかなりの数あり、中には拷問で死んだものさえ出ているのです。
いまさら昔のことを言っても… というような考えが先に述べた日系団体のトップたちの頭の中にあるのでしょうね。でも、こういった歴史の事実というものは、やはり一度、きちんと公表すべきだ考えます。


あしあと(2)  コメント(1) 
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あしあと 2

コメント 1

たえり

そうだったのですね・・「大変な困難」があったとはよく聞きますが太平洋戦争にかんすることはまったく初耳でした。
先日チリ人の知人に「ブラジルの日本移民はみな大金をかせいでいい暮らしをして幸せにくらしている」というようなことをいわれ、それは一側面だと非常な違和感を感じたのですが実際は想像以上のようです。
勉強になりました。
by たえり (2008-05-27 02:55) 

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