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ブラジル日本移住100年を迎えて ③ [考えること]

 日本は真冬ですが、こちらは真夏なのでブログのスキン(背景)を変えてみました。
日本の肩は、外は雪が降っているのに、こんな涼しそうなスキンを見ると違和感を感じるかも知れませんが、毎日クーラーもない職場で仕事をしているLobyはこのスキンを見ると爽快さを感んじます(^^;;

今日は34に度までなりました。(;´д`)ゞ アチィー!!
金曜なのでネクタイなし、半そでシャツで行ったので助かりました。
金曜はノーネクタイデーなのです。
気象予報によれば週末は天気がくずれるとか...
そのせいでしょう、外は雨がじゃんじゃん降っています。

             【 植民地の日本人移民一家 】
      

さて、ブラジル日本移民の話しにもどって、サンパウロ州の各地のコーヒー農園に契約された日本移民は、第一回でも書いたように奴隷同然の待遇を農園主から受けました。
奴隷小屋として使われていた小屋にはベッドなんてもちろんなく、小屋の片隅に乾いた草が積まれていたそうです。
当然、電灯もなし、井戸もなし、便所もなし、というところがほとんどでもあり、最初の仕事は寝台を作ることだったそうです。
さらに目当てであったコーヒーは収穫期(4月)を大きく外れて日本人移民たちが到着した(6月)ためろくな収穫もできず、日本人移民たちを大いに失望、落胆させましたが、これは当時、日本人移民を募集してブラジルに送り出した移民会社(当時は殖民会社と呼ばれていた)がコーヒーの収穫作業従事では大もうけできると宣伝、つまり、今で言う誇大宣伝、つまりウソの宣伝をしたことが原因です。 殖民会社はコーヒー農園で2、3年働けば大金をためて日本に帰れると宣伝したのです。 そんなうまい話なんて昔も今もないわけですけど、やはり昔も今もだまされる人間はいますね。。。


過酷な労働条件、通訳不足による農園側(契約主)とのコミュニケションの問題(というか実際はコミュニケーションが全然できなかった)、なれないブラジル食で体調をくずすものが続出、金儲けになるどころか借金ばかり残る等の問題で、コーヒー農園から逃げ出すものが続出。 また、過酷な労働、賃金が安すぎるなどの理由で働くのを拒否し(いわゆるストライキ)、農園から追放された者たちも多かった。 笠戸丸移民の半数以上がブラジル到着後2年以内に農園から逃げ出したり、追放されたりしたと言われていますから、われわれの予想を超える酷い環境だったのでしょう。
また、風土病で亡くなるものや、医療不足でなくなる者も当然ながらかなりの数にのぼっています。1910年代には、ある植民地では60数名(80名と言う説もある)、別の植民地では300名が風土病で亡くなるという大惨事も起こっています。

            【 綿を収穫する日本人移民の娘さん 】
 

植民地とは、コーヒー農園を出た日本人たちが集まって作った農業集団地のことですが、当時の、移民時代当初の日本人植民地の共同墓地には、幼児や子供の墓が圧倒的に多いそうです。これは現代でもそうですが、やはり医療不足でもっとも犠牲になるのは弱い子供たちと言うことですね。

こうした筆舌ではつくせない大変な苦労をして、文化の違い、習慣の違いを乗り越えて、日本人移民たちはブラジルで生計をたて、生活するすべをおぼえ、子供を教育し、ブラジル社会に送り出して来たわけです。日本人の教育熱心さはブラジルでも発揮され、移民の子弟たちは親たちから受け継いだ誠実、勤勉、仕事熱心といった日本人の特質でもってブラジル社会で次第に信頼を得て来たわけですが、中でも農業面における貢献は絶大なものがあります。 とくにサンパウロなどの大都会は、日本人移民およびその子孫(2世、3世~)たちの農産物生産量増加ならび農産品の多様化がなければ、現在見られるような発展はなかったと思われます。 

               【 奥地で開墾作業をする日本人移民 】
         


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